生瀬良造前監督に三木義一学長から感謝状

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生瀬良造前監督に三木義一学長から感謝状

2017.05.25 更新

生瀬良造前監督に三木義一学長から感謝状

女子部監督50年「長い間、ありがとう」

女子部監督を50年務めた生瀬良造前監督(S40年卒)に三木義一学長から感謝状。春季リーグ戦も終わった5月25日午前11時半、青山キャンパス8号館2階の学長室は和やかな空気に包まれました。「50年という非常に長い間のご指導、ありがとうございました」三木学長はにこやかに感謝状を贈り、記念に江戸切子のおちょこ(青学カラーの緑)をプレゼント。「これからも日本や世界で活躍できる選手を輩出してください」と励ましの言葉をかけられました。自身が学生部勤務時代から懇意の外岡(とのおか)尚美副学長から花束を贈られた生瀬さんは「(50年は)あっという間でした。堅実に、謙虚に、誠実にということを指導方針としてやってきました」と緊張の中にも喜びがあふれていました。

歓談の中で三木学長は、青学が大学紛争に巻き込まれた時の様子を細かく説明し、「(当時の生瀬さんは)バレーボール部の監督としてだけではなく、職員としても青学のために尽くされた」と話され、出席者は”さすが母校愛の50年”との思いを強くしたそうです。

OB・OG会緑楯会女子部会の雛田総子部会長(S39年卒)からは、教え子たちの思いを綴った「生瀬監督50周年感謝のメッセージ集」(2月28日、参加者に配布)を学長、副学長に手渡して、出席者全員で記念写真。平澤典男部長先生(地球社会共生学部長)、雛田部会長、生瀬さんにとって最初の部員・酒井和子さんと栗村武子さん(ともにS46年卒)、今春から指揮を執る秋山美幸新監督(H18年卒)、比金みなみ主将、高木晴香主務ら。「ハイ、ポーズ!」の掛け声は撮影の納富里美さん(H21年卒)。学長はこの写真を自分のアルバムに貼るとのことです。

ことの発端は「生瀬さん感謝の集い」(2月29日・IVYホール)の直後でした。平澤部長先生が、50年間も監督を務めた功績を大学としても評価してほしい、という思いから学生部等に接触。しかし大学には今回のような案件を表彰する制度がなく、平澤部長先生が手を尽くされた結果、この日の学長表彰となりました。(平澤部長先生、雛田部会長、高木主務の報告などから奥本が要約筆記)

 

      前列左から平澤部長先生、三木学長、生瀬前監督、外岡副学長。後列左から酒井さん、栗村さん、

      雛田女子部会長、秋山新監督、比金主将、高木主務(青山キャンパス学長室にて)=撮影・納富さん=

 <青学の大学紛争>(1969年2月16日付毎日新聞から)

大学紛争は初期の段階では授業料問題、学生間問題などの特定のパターンに限られていたが、今では一瞬即発の状況で何が個別の問題として浮かび上がってくるかは予想もつかない。

女子学生が多く、紛争が起こりにくい大学だと考えられていた青山学院大学でも、あっという間にバリケードが出現、団交→確認書→バリケード封鎖のコースがとられた。

▽条文廃止して内容残す大学

青山学院大学の共闘会議が取り上げた要求項目の中心をなすものは、昭和35年6月17日付で大木金次郎学長が公示した、いわゆる「三公示」の撤回でした。

安保条約が混乱の中、衆議院で自然承認される直前のこの三公示は「1、本大学の学生は全学連への加入を禁止する。2、学内における政治活動的実践は許されない。学園は各種の政党から中立なければならない。3、学生は授業に出席する学生を妨害したり、欠席を強要するいかなる手段もとってはならい。」と、学生による政治活動の制限を狙ったものだった。

共闘会議に結集する学生の要求を受けた大学は、1968年10月17日、この三公示を廃止する措置を取ったが、それと同時に「本学学生が外部の団体に青山学院を、大学をあらわす名称を用いて参加する場合は従来の慣行通り、他の一般団体(体育会、文化団体連合)と同様ににする」と、条文は消去するものの公示の内容をそのまま存続させ、従来通り活動は許可制とすることでワクをはめようとした。

さらに文化団体連合、体育会、学生会とパラレルに並ぶ学友会(会長は学長)の組織を改め、自治会を作る呼びかけも大学側によって並行して行われた。

この大学の一連の措置は、大学の狙いとは逆に学生側の反発を買うことになった。(中略)

1986年11月26日、青山学院大学に初めてのバリケードが現れたのは、三公示廃止のこうしたあいまいさに抗議したものだったと考えられる。(以下省略)

以上

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