青学バレーボール部の思い出…1

  • 青山学院大学体育会バレーボール部OB・OG緑楯会青山学院大学体育会バレーボール部OB・OG緑楯会
  • 青山学院大学体育会バレーボール部OB・OG緑楯会青山学院大学体育会バレーボール部OB・OG緑楯会
  • 青山学院大学体育会バレーボール部OB・OG緑楯会青山学院大学体育会バレーボール部OB・OG緑楯会

青学バレーボール部の思い出…1

2021.09.30 更新

                                  「生みの親、田尾先輩の秘話」

バレーボール部の創設者・田尾昭次さん(左)と海波巌さん(1991年6月5日の平成2年度総会時撮影=

海波さん提供)

 

戦争の爪跡が各地に残る中を、私は昭和20年9月末にやっと復員できましたが、郷里の広島へ帰らず横浜に居住していた長兄の所へ行き、終戦時から考えていた就学希望を話し、了解を得たので早速復員者を編入学させる学校探しとなりました。

当時建築科のある学校は少なく、早大、日大、横浜工専と当るが、1年への編入はなく半ば諦めていた時、義姉が青山にある事を聞き、早速手続きの結果、幸運にも昭和20年10月から通学できるようになりました。

昭和21年の春、広島から上京の車内で中学の先輩に会い、食料が不充分でありながら、早大のバレーで活躍しており、各大学とも苦労は多いが部活動も始まり、近く大学リーグも復活する事等バレー界の近況と中学時代の思い出等で時を過ごし、軍隊以来忘れていたバレーボールの感触を思い出したものです。

早速青山の部活動を調べた結果、野球、テニス、水泳等の部活動は見られましたが、バレー部は無しと判り、少々消沈していました。

ところが、ある日中学部の生徒が円陣パスをしているのを見かけ、話しかけたところバレー部の練習と判り、数日後その練習に仲間入りして、久しぶりのボールの感覚を味わうことが出来ました。

しかし、中学生を相手では当然物足らず、同好のグループを集めるのは自分で動かなければと決意して早速行動に入り、先づボールが必要なため、とりあえず広島の家にあった古いボールを取り寄せました。

次にグループ作りは手近な所からと、経験の有無を問わず最も手近な、小長井君を強引に付き合わせました。彼は全然経験は無いのですが、横浜から一緒に通学するよしみで、渋々付き合ってくれたので、休み時間に階段教室の横の空地で2人パスを始めたものです。といっても小長井君は未経験のため、パスの基本を教えながらでした。

そのうち同じ建築専攻の加藤哲也君がこれに加わり、しばらくして彼と同県の舘君を加えて4人で、また時には建築グループの者を引っ張り出しては円陣を組むようになったのですが、空地は小石がゴロゴロしていて、足元も悪いのも加わり、切角円陣に加わったものの突き指する者が多く、そのためか、円陣の輪は大きくなりませんでした。

今日は誰を引っ張り出そうかと、講義の間にも、目ぼしい者を探すのに懸命でした。ようやく5〜6人の輪が出来るようになった頃、建築科以外の者や1年の者も加わり、時には10人位になる時もありましたが、人が多くなると必然的にボールの損傷も大きく、1個のボールでは直ちに破損するために修理の繰返へしで、ボールとは名ばかりで、まるでラグビーボールのように変形し、中のチューブが出る仕末で困っていたところ、小長井君が知人から進駐軍の古ボールを入手してくれたので、しばらくこれで円陣が作れるようになりました。

当時は食物が不自由でしたから、学割のきく私は度々郷里の広島へ食糧の補給に帰ったものでした。このように不自由ながらもボールは入手できましたが、コートとネットが無いので、樹木に縄を張っては4〜5人で試合形式がやっと出来るようになりました。しかし、まだバレー部としての動きは出来ませんでした。

夏休み明け頃に1年の加藤精三君達が輪に加わってきましたが、まだまだでした。その頃これはやれるぞと期待できる者が時々出て来るものの2日続かないので、せめてあの男がいれば何とかチーム作りも出来るが…、と思っていたところ、不思議にも今度は2〜3日続いて出てきたのでグループに加わるよう要請したところ、即座に了解を得ることができました。これが吉田君です。

今までの彼は或る事情で毎日出校出来なかったのですが、バレーの虫であったらしく、それ以来彼は毎日出てきたので、これでやっと部活動できると判断し、学校とバレーボール連盟に届出を行ったのが、昭和21年の9月頃であったと思います。

当時は勿論9人制ですが、9人の駒が揃う時が少なく、加えてコートも無し、只グループが出来たのみでしたが、何とか試合形式の練習をしたいために中学部に相手になってもらったのですが、安藤君(後に明大専門部で現在も私とは文通中)や海波君等のチームに負ける事が多く、常々カラカワれていたものです。

どうしても専用のコートが欲しく、テニスコートの一面の譲渡をテニス部に依頼したが受入れられないために、これも自力でやらなければということから、グランド端で野球やラグビーの支障とならない、プール入口の所を勝手にコートと定め、その廻りの雑草を抜きコートらしくした。次に建設会社からバタ角2本を貰らい、これをポールとした。ネットはテニス部の古いテニス用ネットを借用し、やっと専用の練習場を入手したのも同年の秋でした。

このようにしてやっと対外試合に出る気運に及び、秋のトーナメントに出場したものの、公式戦の経験者は吉田君と私の2人のみで、加えて駒不足のため、中学部の安藤君の応援を得ての試合は青山バレーのスタートでしたが、勿論見事な惨敗でした。

同年秋の学院祭実行委員会でやっとバレー部の存在を認めさせることができ、これによって野球、テニス、ラグビー部の予算を少しづつ減じて、体育会からネットとボールの少々の配分を初めて受けたのですが、よくも認めてくれたものと思っています。

このように発足した当時は対外試合もままならなかったのですが、昭和22年春に発足した高専リーグに参加して、やっとバレー部の動きらしくなったものです。当時は都立高校体育館等で試合がありましたが、駒不足のため相も変らず中学部の安藤君の応援を得て、時には海波君という時があったと思いましたが、リーグ戦は比較的好スタートであったと思います。

リーグの途中である部員が欠場するため、人の手配がつかず困っていた或る日の練習を手伝ってくれた男がいました。彼はテニスの合間を好意的に我々の練習を手伝ってくれたのが仲々上手で、これは良い者が居たとばかり入部を進めるが、テニスをやるといって仲々応じてくれない。それではとリーグ戦途中に欠員が生じた窮状を説明して、今度の試合を応援して欲しいと懇願し試合に出てもらいました。私としては切角の掘り出し物を逃がす手は無いので、次の試合、また次の試合へと強引に出てもらったのが福原君で、彼はこれが結局入部の原因となり、後年の青山バレー推進の原動力となりました。

当時は校門を入ったすぐ左の講堂の裏に部室がありましたが、部室の絶対数が少ないため、戦前戦中を通じて活動していた部が僅か2坪位の部室を使用していたので、仲々新興のバレー部は部室どころではない状況でした。しかし部室の欲求は部員数の不足に関係なく募るばかりでしたので、人数も道具も少ない部で同居させてくれる部を探して、同居させてもらう事を思いつき、最初テニス部に同居させてもらいましたが、もっと良い所という結果、児童研と同居したのが部室の思い出です。

青山バレー部の思い出…1
田尾昭次さんが、昭和56年9月3日、海波巌さんに宛てた手紙

関東学院との交換試合。私と小長井君は同じ横浜から通学していたので、時々横浜の町をぶらつくことがありました。私の義姉の実家が女子系の学校(精華学園)を経営していたことと、学校が住居に近かったので時々学校へ出かけていたのですが、ある時中学のバレー部の練習を見に行った時、横浜専門からコーチを招いていると聞き、近くであるし物珍しさと暇にまかせ、当の横浜専門を小長井君に案内してもらい、コーチの出来るバレー技術を見物に行った時、横浜地区で関東学院等と定期大会を行っていることを聞き、同じ学院系という事で話しを出した結果、関東学院との定期戦となったと思います。

昭和22年夏休みに不自由を承知の上で合宿を計画したところ、全員参加ではなかったが10日間程度の合宿訓練を行いました。勿論昨今の合宿とは大変な違いがありました。

戦後の混乱期を脱出したものの、依然として衣食住の問題は深刻であったので、学生の大半は休みもなければ、食べるための資金集めにアルバイトを必要とする時ですから、合宿とはいえ金のかかる事は出来ないので、合宿の場所も部室を中心に学校で行うことしました。

しかし狭い部室では3〜4人が精一杯のため、その他は屋外か教室を利用することになりました。当時は教室に好都合の物があったのでこれを利用しました。私達建築専攻の者が設計製図の利用する製図板の大きいものです。これを利用して横になったものです。

勿論食べる物は少なく不自由で、食糧切符と交換するコッペパンやあちこちから調達したサツマイモとか僅かばかりの米等で野外で自炊しながらの難行苦行の青学バレー部第1回目の合宿でした。

秋季リーグを前にしての練習は、もっぱら実戦向きに行ったので相手にしてくれる所はどこでも良く、遠くは横浜専門、近くは正門前の路面電車の会社や渋谷の東急等の実業団チームを相手に、試合感を養う事を当面の目標として行った結果、個人技は他チームに及ばなくともチーム総合力によって接戦を切り抜ける技を全員が身につけていったので、秋季リーグは予想以上に好成績を収めることができました。

秋の各種大会にも多数出場し、実戦的な青山バレーを各所で披露したので、秋のバレーボール連盟の機関紙創刊号に青山学院バレー部の名前が記載されるなどと、やっと部活動の芽を出した次第です。

秋のバレー行事が終れば、私は来春の卒業に向って今迄さぼっていた学業に精を出した結果、やっと卒業出来る見通しもたち、また就職も内定したので、来年度の飛躍を吉田君と福原君に期待しながら、のんびりと残りの学生生活を味わっていた時に次のような一大事が発生しました。

技術面で最も優れていた吉田君が講義出席が悪く、そのため進級に若干の問題があるので、青山を中退して立教へ代わりたいと申し出たため、これは一大事と先づ本人を説得し、次に学校当局との接渉に大変苦労し、遂には名前だけで良いからといってバレー部長お願いしていた古坂先生に御援助を仰ぐと同時に、経済学部の主任教授他の関係者に懇願して、追試験等あらゆる手段を講じて戴き、ようやく進級出来る見通しを得ることが出来、やっと私も安心して卒業できましたが、あの時吉田君がもし退学していたら果して、バレーになったであろうかと今でも私は一大事として頭に残っております。

卒業後は皆さんもご存じの通り、遠方に甘んじて、バレー部のお役になることも出来ず、今日に至っておりますことをお許し下さい。その間に幸いにも福原君が庭球部へ復帰することなく、吉田君に代わり藤田君ほか皆さんの協力を得ながら多難の時代を乗り越えて今日の青山バレーに導いてくれた御苦労を深謝すると同時に、今日までの各時代に御尽力戴いた部員各位にも厚く御礼を申し上げ、青山バレーの益々の発展と関係の皆さんの御健康を祈念しなかがら、35年余の昔しの思い出を終らせて戴きます。(昭和23年専門部卒業 田尾昭次)


手紙の末尾に7名の名前が書いてありました。これは当時のポジション(陣容)だと思われます。図にしました。

前衛のセンターは田尾さん。今で言うセッターです。リードオフマンは福原さん、エースは吉田さん。

ライト側の前衛と後衛が…になっていますが、このポジションは適宜、高等部から借りてきて埋めたものと思われます。


青山バレー部の思い出…1

第6回全日本大学選手権大会の海波巌さんの選手証(名刺大)です。左のロゴは日本バレーボール協会の、右のそれは全日本大学連盟の、各マークです。書き文字は当時マネジャーの杉浦茂さんが記入したものだそうです。通称全日本インカレは昭和23年(1948年)に第1回大会が開かれ、早稲田が関学を破って初代チャンピオンに。第6回大会は昭和28年、この年は立教が優勝しています。バレーボールは当時、大学がトップレベルで花形競技の一つでした。選手証にステータスの一端を垣間見る思いですが、現在はそのようなものはないそうです。ちなみに今年で男子が65回、昭和29年スタートの女子は59回の大会を迎えますが、本学女子は4度(35、52、53、55回)女王に輝いています。

青山の思い出…2」に続きます。

コンテンツ

ページトップ